「音楽」の定義

Music Definition

前書き

以下の内容は、2007年頃に執筆した持論であるが、
前置き(特にメソッドと哲学の話)が非常に長い。
結局何を言いたかったのだろうかと自問したところ、
どうやら「音楽とは一体何なのか」が論点らしい。
完全に黒歴史だが、今なお納得できる部分もある。
若かりし自分のエネルギーを讃えて、
ここに記し、気が変わるまで残しておくこととする。

本文

故きを温ねて新しきを知る。
思うて学ばざれば則ち殆し。

先人に学ぼうとする姿勢がなければ、
「斬新」を見極める術も亦ない。

一部の仕掛け人に、踊らされる大衆。
あれもこれも、疾うの昔にやられてたのに。

釈迦如来の掌でご満悦の「おさる」が
溢れかえる世の中。

そして残念なことに、自分も決して例外ではない。

偉大な先人達の試行錯誤から生まれた、
広大な音世界の道標。

これまでの歴史が解決できなかった問題や、
一つの理論を打ち立てた時に
付随して起こる新たな疑問への挑戦は、
我々21世紀の音楽家へ与えられた、
大きな「使命」である。

さて、世の中では「Method」や「Concept」
と呼ばれるものが、たくさん生み出されている。

これらは周知の通り、
個々の事象から共通項を見つけ出して
グループ化していくという、
「帰納的体系付け」によって確立されるものか、
自然現象という絶対的な神の法則を裏づけとして、
半ば強引に「演繹的当てはめ」を行い、
個々の事象を説明するといったものの、
大雑把に言って、二つに分けられるわけだが、
こういった試み自体、
元来我々に備わっている知識欲を一歩推し進めた、
極めて人間らしいあり方だと思うのである。

そして、あらゆる学問において、
決して避けては通れない道なのだ。

「帰納と演繹」は森羅万象二極一対、
男と女、陰と陽、阿と吽」北斗と南斗、
つまり、決して切り離せない
表裏一体の関係であるわけだが、
「卵と鶏」の様なものではなく、
神でない限り「帰納」が先なのは間違いない。
人間は「理性」が鍛えられるまでに、
数々の「経験」を踏まなければならないのだから。

私は「Method」というものは、
「特化的な帰納法」から生まれると解釈している。

元々実践の中で使われているものを、
「シンプルな規則でまとめ上げる」といった作業。

一聴この上なくすばらしい方法に聞こえるが、
良いことばかりではない。
実は「Method」というのは、
守備範囲(音楽で言えばジャンル)が非常に狭い。
つまり、共通項が見つからなければお手上げであり、
その橋渡しをしてくれるものはない。

であるからして、
真の意味で一般的原理になりえないし、
まあその必要もないのであろう。
ある特定の範囲に的を絞れば、
絶大な威力を発揮することになるわけであるから。

いずれにせよ、私の中では「すぐ使える」とか
「実践的」と言った売り文句が、
「Method」という言葉のイメージに結びついている。

「バークリー・メソッド」はその典型で、
それらしい「理論」の様にも見えるが、
その実態は、ジャズと20世紀型商業音楽を中心に
「特化されすぎたもの」なので、
本当に簡単、かつ実践的であると同時に、
その裏づけは弱く、
ただの経験則をまとめたものに過ぎない、
つまり真に「現場から生まれた」手法なわけである。

もちろん、それを作り上げるには気の遠くなるほど
膨大な作業があったことは想像に難くないし、
心の底から頭が下がる思いではあるが、
かなり具体的に確立されてしまった反面、
応用、発展性の行き詰まりが意識されてくるのは、
もとより自然なことであるわけだ。

これに反して「Theory」
あるいはもっと「らしく」言うと「Law」
という言葉には演繹的なイメージが伴う。

「音」を扱う学問の世界においても、
すでに確立している原理から
あらゆる「音現象」を説明するために、
いろいろな仮説が立てられるわけだが、
それらは極めて「理性的」である。

これは、人間が「神に近づかん」とする
行為の一つであるのだろうか。
言うなればこれを成し遂げることが私の、
いや「理屈っぽい音楽家」の悲願であるわけだが、
今度は逆に範囲が広すぎて
収拾がつかないことになり兼ねない。

「Theory」「Law」というのは、
絶対的で神がかりな崇高さを持っている反面、
実践に適用するには一筋縄ではいかないといった
少々「形而上学的」傾向があると思う。

例えば、バルトークの曲の中には、
黄金分割に基づいて作られた、
と解釈されているものもあるが、
(本人が本当にそういう意図だったかは定かでない)
これは自然界における特定の有機体に当てはまる
「神の法則」に身を委ねているわけで、
裏づけとしては多少強力になったとしても、
どう考えてもすぐには使えない。

殊に音楽に適用するには、
それを元に独自の手法が必要となるので、
無限の可能性がある反面、
袋小路に迷い込む可能性も大なわけである。

余談だが、「芸術」という概念の話になると、
数学や物理から根拠を見出すのはより困難になり、
理性的な「美学」の他に「感情」というものが、
無視できない問題として浮上してくるのであるが、
心理学的な面から、人間の「音」に対する
感じ方を研究することによって、
確信犯的に感情を揺さぶる音楽家もいるわけで、
そういったあり方はやはり「理性的」である。

しかし、心理学は結局統計に頼るしかないわけで、
万人に当てはまる法則はないのだろうから、
そこが、音楽というものの「絶対性」を確立するのに
大きな壁となっているのは、想像に難くない。

果たして、あらゆる「音現象」が持つ
「不変の共通項」とは一体何なのであろう。
あるいは、あらゆる「音現象」を統括する
「絶対的原理」は何なのであろう。

これを見つけることは、不可能と思われる。

いやもしや、単に私が勉強不足なだけで、
音響物理学の世界などでは、
もう見つかっているのかもしれない。
しかし、これは私の望むものとは少々違っていて、
言うなれば「ユニバーサル」すぎるわけである。

では「音現象」ではなく「音楽」ならば?

これはある意味「ふるいにかけた」わけである。

一見楽になった様に思えるが、
より明確なものを求められるとも言える。

このあやふやな霞をとっていく作業を進めていくと、
あるところで納得せざるを得ない
「音楽」の定義が打ち立てられることになる。

つまり「音楽」という概念は、
何らかの形で縛られてはじめて成り立つ。

そこで、大胆にもこの場所を借りて、
持論を発表したいと思う。

しかし、一言で決めるのは大変難しいので、
「ある音現象が音楽であるための条件」
を箇条書きにしてみる。

「音楽」とは、

①楽音主体で構成される。
噪音、雑音は味付けとしては使ってもよいが、
それ自身が主体とはならない。

②ある種の普遍的秩序を持っているので、
必ず何らかの方法で分析できる。

③静寂は楽音に含まれるが、
極めて客観的な立場から
その長さを限定されるべきである。

以上。

とりあえず今のところ、これでいこうと思う。

まあこれでJohn Cage系の音楽家や
一部のフリージャズ・プレイヤーとは
120%対立する立場になってしまったわけだが。

抽象性を避けるために、
根拠と事例を挙げて簡単に説明したいと思う。

①の「楽音」に限定した理由は、
ただ単にそれ以外も含めてしまうと
実践力が格段に落ちるからである。
最低限の普遍性を保つために止むを得ず、
と言っておくことにする。

②は一番大事で絶対条件になる。
つまりどんなに複雑な音楽も必ずパターン化でき、
逆に言えばどんな音楽においても、
そのパターンを認識できて初めて「鑑賞」できる、
という立場に私は立ったわけである。

③は「4分33秒」を目の敵にしているわけではなく、
数字をパロって例えるなら
「3日に一度必ず午前4時33分に雄叫びを上げる」
といった様なものを「音楽」と呼ぶことはできない、
と言っているわけである。

「3日間の静寂は楽音であり定期的な雄叫びは秩序」
と言われても、これは現在の人間感覚を通り越した
屁理屈の可能性が高いので。

時間を超越した「ニュータイプ」ならば、
あるいは規則性を感じ取るかもしれないが、
地球の重力に縛られた「オールドタイプ」の私には、
音楽的律動の限界は10秒程度であろうか。

とは言っても、ウグイスやツクツクボウシの鳴き声、
除夜の鐘等は、微妙な位置になっている。

ところで、よく「音楽は自由」と言う人がいる。
これは、誰でも聞いたことがあると思う。
しかし、言っている人は皆胡散臭い。

総じて、自分が説明できない、
つまり「何をやっているかわからない」時に
出てくる言葉であり、それは自由ではなく
「分析不可能」ということに他ならない。

そして「音楽は自由」とう言葉は、
実はがちがちに縛られた音楽世界の中で、
その限定範囲の境界線すら見極めることができない、
といった恐怖心から発せられているのである。

ある種の「秩序」と「束縛」は、
切っても切れない関係にある。
本当に自由で無秩序な音世界において、
どれだけのいわゆる「自由主義者」が
「音楽」というものを体感できるのだろうか。

前田憲男氏がフリージャズの真似事をする時に、
「演奏者が自由になるほど聴き手は不自由になる」
みたいなことを言っていたが、
「度を越えて無秩序なものは認識対象になりえない」
ということを、如実に表している様に思える。

私は別にフリージャズが嫌いなわけではないが、
客観的な見方を放棄することはできない。

いずれにせよ「音楽」には
何かしらの「秩序」があると定義づけた以上、
より多くの分析の仕方を身に着けている人の方が、
より多くの「音現象」を「音楽」と認識できる、
ということになるわけである。

世の中に垂れ流される一聴無秩序な音の羅列を、
できるだけ多く「音楽」と感じられるように、
「理論」「法則」「方法論」といったものの
長所短所や実際の音楽への適応性、
将来へ向けての発展性について考えていくことは、
12音平均律の行き詰まりから失敗を重ねてきた今、
「ニュータイプ」育成への一縷の望みではないだろうか。

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